じゃるか中国語アカデミー
中国語を交わす。中国文化に触れる。"じゃるか"は皆さんを中国にいざなう案内人です。 お問い合わせ

2012年12月21日

四度目の香港

李強李強です。北海道をPRする為にいかにメディアを利用できるかは今の
私の仕事です。北海道にある某テレビ局の海外マーケットを開拓するチームの
一人としてとても貴重な経験をさせて頂いております。
今回の出張の第1個所は香港でした。


今回は四回目の香港だったのですが、仕事だけではなく、少し歩く事ができました。
ほとんどタクシー使わず、地下鉄とバスを利用しました。一日一万歩以上は歩きました。
小さい頃から憧れた香港は今でも魅力的です。活気溢れている町と人々の表情は印象的でした。
二層バスに乗ってゆっくりと香港を楽しんでいました。


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香港のAKB48のショップに行ってきました(市場調査のため)。
西九龍にあるショッピングセンターに入っています。
香港の秋葉原だそうですが、あまり感じんなかったのです。
そのショッピングセンターにはなぜか沢山のマッサージ屋さんが入っています。
AKB48のショップはいつ開くかもわからないようです。ちょっとガッカリです。


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香港滞在中にちょうど北海道のイベントをやっていると聞いて見に行きました。
それもまたガッカリ!資料によると4,5万人の来場者が見込んでいるそうですが、
只の通行者に見えない会場でやる事は意味があるのかと疑問を感じています。


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2012年12月20日

人生初めて茶館に行きました。

李強李強です。暫く上海病から抜けられなさそうですね!
この町は、嘗て私が暮らしていた所と思えないほど変わりました。
人口も私がいた時より倍になったし、街の雰囲気も大分変った。
地図を持たないと歩けない昔に上海人。


今、札幌で「楼蘭」という中国茶専門店を経営していますが、
まだまだ自分のイメージをしている「茶館」にはなっていないです。
恐らくならないでしょう。悲しいことに。
深い文化の背景がなければ、お洒落な店でも只の箱に過ぎない。
日本、中国、台湾の所謂「茶芸館」には結構行っていますが、
こんな素敵な「茶館」は初めてです。


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この茶館は「七宝書場」と言います。七宝は地名で、上海南西部にある古鎮。
書場とはお茶を飲みながら色んな大衆演芸を楽しむ場所です。
お茶持ち込みなら5元の入場料を払います。中で買うと一人2元です。
合わせても100円しない。毎日通いたいです。



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七宝を散策しながら、教会を見つけて、入ってみました。
日曜日なので礼拝の方は大勢いました。
信仰の自由はこれから中国が変わっていく重要なポイントだと私が思っています。
中国人が嘗て重んじていた道徳がどんどん失ってきている中、心の洗濯は必要ですね。


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2012年12月19日

遠ざかっている中国

李強じゃるか中国語アカデミーの李強です。
二週間の中国出張が終わり、昨日帰国しました。
来日14年半、こんな長い中国滞在は初めてでした。
先週の事はまるで一年前のでき事のようです。



メインの仕事が終わり、ホテルから実家に移りました。
朝ご飯は実家近くの「点心店」で、15年前私が日本に行く前にすでにあった店です。
小籠包4元、ワンタン8元で、合わせて150円、前よりちょっと高くなったけど、
相変わらず美味しいです。


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中国冬の定番料理は羊肉の鍋です。地域問わず、広く愛されている人気料理です。
美味しい店もたくさんあります。しゃぶしゃぶが主流ですが、北海道のジンギスカン
のような食べ方もうけるのではないでしょうか。



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上海滞在中にちょうど北海道物産展が上海伊勢丹で開催されていました。
例年と変わらない人気だそうです。数ヶ月前の反日デモはあまり感じない今の上海です。



2011年05月14日

北海道の生活振りを発信します。

5月13日朝、北海道札幌の中央卸市場でリポートをしました。

Power of Hokkaido」プロジェクトの一環です。北海道各地の生活振りを海外に発信して、より正確な情報を国外の皆さんに伝えます。

英語、韓国語、中国語などの多言語のコンテンツをインターネットを通じて配信していますので、可能な限り皆さんの力を借りて広めて頂けたら幸いです。


2011年05月01日

何か貢献できればいいなと思っています。

震災や原発の問題で大勢の観光客が日本を遠ざけています。

戻すために正確な情報を発信したり、いろんな方の呼びかけは必要だろうと。

きっと誠意は伝わると思います。微力ではありますが、私も参加しています。

2011年02月03日

春節!

今日は旧暦の正月です。

昨日大晦日の夜、たくさんの友人と一緒に餃子を作りながら
新年を迎えました。家族連れもいます。恋人同士もいます。
一緒に中国語を勉強している仲間もいます。日本に来て夢を
追い続けて8年も経った国同士が、今月に国へ帰ることに決心
した私の妹分もいました。

明日は立春です。春はもうすぐやってきます。きっと皆さんは
今まで以上の幸せを手に入れる事ができると信じています。



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2011年01月22日

寒中お見舞い申し上げます。

皆様ご無沙汰しております。
2011年初の更新です。
大寒は過ぎてしまい、寒さはこれから少し和らぐのでしょうが、
皆様にはお元気でお過ごしのご様子、なによりとお喜び申しあげます。
今年もよろしくお願い申し上げます。

だらしない私パンチを応援し続けて頂いた皆様に本当に申し訳ない気持ちが一杯です。
調子乗りすぎた時に是非喝を入れて頂きたいです。

今年は謙虚に皆様と一緒に素晴らしい年を歩んでいきたいと思います。

2010年01月19日

成長

 人は学習によって成長していくものですね。なんか誰でも分かるような事なのに最近気が付きました。
 土曜クラスに片さんという生徒がいます。約二年位教室を通っています。中国語の進歩はもちろんのこと、人間としても成長し、かなり格好よくなったような気がします。
 やっぱり一生懸命勉強している人は輝いて見えますね。
 このような生徒達に鍛えられ、私も成長しています。どのように教えれば生徒がもっと上手くなるかを常に考え、ジャック・リの独壇場も益々パワーアップして、より充実した教室にしようと奮闘中です。

2009年06月08日

A型

 忙しい日々が続き、全然つれづれじゃないですね。ようやく落ち着きました。まあ、忙しい事は良い事です。この不況の世の中にまだやる事があってよかったです。
 実は一週間ほどずっと中国から来ているお客さんに付き添っていました。視察や会談、表敬訪問に夜の飲み会。この一週間のお陰で自分はどれほど日本人化されたかがよく分かりました。
 5年前の事を思い出しました。ちょうど仕事で上海に帰った頃でした。実家近くのスーパーに買い物に行きました。レジは二台あったのですが、混んでいないため一台しか稼動していませんでした。4,5人位並んでいて私は最後にいました。順調に進んでいて気分は穏やかでした。しかし、私の前のお客さんが終わった瞬間サッと割り込まれました。割り込んだ人は無表情で当たり前のように買い物カゴをレジ台に置き、しかも店員も指摘せず、まるでその5秒間は世界が止まったように感じました。ものすごく腹が立ちました。恐らく純粋上海人時代の私だったらケンカを売っただろうと思いますが、その時の私は何も言えずムカついたまま帰りました。その場で自分の主張を言えなかった自分にムカついてしまいました。
  日本へ帰る飛行機の中で偶然札幌で知り合った上海人と会いました。その話を彼に話すと彼はこう言いました「いいんじゃないの、あなたが暇だったからちょっと待たされても別に腹立つ事はないでしょう。」
 一瞬の間彼を尊敬してしまいました。なんと大らかな人なんだろう。自分は小さいね!やっぱり日本に来てよかった。A型の私はきっと中国では暮らし難かっただろう、と今は思います。

2009年05月19日

第五章 ビックリドンキーとアオキさん

 日本に来て初めての外食は「ビックリドンキー」だった。どこの店かは覚えていないです。
 カウンタ席に座っていました。店の雰囲気はかなりよかった、その当時の私にとっては間違いなく高級店でした。今の中国は分からないけど、当時の中国にはカウンタ席の店はなかったはずです。7、8年前に上海に帰った時、友達に誘われて回転すしの店に行きました。もちろん当時の上海にしてはちょっとお洒落な店という感じですね。カウンタ席はあります。すしがぐるぐる回っています。でもカウンタに座っている人はいません。自分ですしを取っている人もいません。客はメニューで注文して店員が回っているすしをテーブルまで運んでくれる回転すしだった。意味ないじゃん、と思うけどそういうものです。
 話が戻ります。ビックリドンキーのハンバーグはうまかった。ちなみにその時に食べたのは上に目玉焼きが載せてあるハンバーグでした(名前は覚えていないです)。箸で食べたけどちょっと西洋人になった気分でした。やっぱり西洋の物=高級品という思いはあったのですね。
 さて、ビックリドンキーはアオキさん(日本人ですがよく中国人と間違えられる)とどう関係あるのでしょうか。話せば長くなりますが、言わせて頂きます。
 アオキさんは私の師匠の一人です。とりあえず、私の日本語がここまで話せるようになったのはアオキさんのお蔭です。私が日本に来て二年目の時に出会って、店(楼蘭)を立ち上げるために手伝ってくれた人物です。個性的なインテリです。出会った日に家にご飯を招待しました。食卓はやや汚れて、私は嫁さんに雑巾ちょうだいと言いました。彼は私に向かって「雑巾じゃないでしょう。布巾だろう」と強く指摘しました。嫁さんは彼に「大丈夫だよ、通じたから。この人は外人だよ」と笑いながら言いました。
 彼は再び私に向かって「正しい日本語を使わないと君は一生外人だ」。この一言で私の人生が変わりました。
 半年後、アオキさんと一緒にビックリドンキーにご飯を食べに行きました。ハンバーグにご飯それと味噌汁、素晴らしい組み合わせだね、といつものように文句ばかりぐちって、しかも味噌汁の器はお椀なのになんでご飯は平らな皿なんだ。その時、私は初めて気付いた、ビックリドンキーは西洋のものじゃないんだ、日本食なんだ。
 それを題材にして私は2001年の「外国人による日本語スピーチコンテスト」(札幌)に参加し優勝しました。タイトルは「made in japan」 。

2009年05月14日

第四章 愛国心

 国を愛する心は自分の国から出ないと分からない事がよく分かりました。私が思う
愛国心というのは「国」を愛する事ではない、暮らしている土地を愛する事だと思います。
 中国というと様々な固い教育が盛んだというイメージがあるようです。「愛国心教育」やら「反日教育」やら「○○教育」やら、なんか中国人はとても洗脳されやすい印象が見られます。そして中国はとても怖い国だと思っている方も少なくないようですね。「毒餃子」、「独裁」、「公安」、「人権侵害」、「コピー天国」・・・、もう本当に最悪な国ですね。
 それでも私は自分の国を捨てる事はできない。新聞配達をやっていた頃、吹雪の中
で中国の「国歌」を歌いながら自転車を押していた。朝早いので誰も歩いてなくて、恥かしいながらも大声で歌っていました。生まれて初めてこんな大声で「国歌」を歌った。でも人が通る時はやっぱり止めた。変なヤツだと思われたくない。今思えば、日本に来たばかりの時かなり礼儀が正しくてマナーをよく守っていました。自分は国を背負っている自覚があった。
 何か悪い事をしていたら、やっぱりコイツは中国人だと人に言われたくないです。日本語をまともに話せない事すら恥かしく思っていました。いつも「そう、そう」でごまかしていました。「え〜日本人じゃないんだ」とばれた瞬間に本当に「申し訳ありません」と言いたい位ですね。すごいコンプレックスでしたね。貧乏な家庭で生まれた子供の気持ちはよくわかります。貧乏は別に悪い事ではないのにそれを子供に恥かしく感じさせる世間って・・・。
 時が流れ、今の私はそれ程国を重く背負っていない。時に「李さんは犬を食べたことはありますか」と聞かれても「中国人は飛んでるものは飛行機以外、四本脚は机椅子以外、二本脚は親兄弟以外全部食っちゃう」と自分の国の文化を馬鹿にしたり冗談で言ったりすることができるようになりました。「ちょっと調子こいてるんじゃないか」という時もある。しかしつい最近の出来事で深く反省するようになった。
 ある友達に頼まれて中国から偉い人が来るので、どうも風俗店に行きたいという要望があった、情報を教えてくれないかと。自称ススキノに詳しい私が何軒かの店の情報を彼に教えた。その後、この話を私の昔の友人(中国人女性、6年間フランスにいた)に笑いながら喋った。彼女はこの話を聞いてすぐ立ち上がって涙を流しながら私に言った「今のあなたの笑い顔はとても下品だ。こういう偉い人がいるから中国はダメだ。」
 響きました。「私が悪かった、もう二度としません」と心からお詫び申し上げます。

2009年05月12日

第三章 仕事 つづき

 この一章の続きを書こうと思っていたけれど、やっぱり書けるものはないですね。
 どんな仕事だって大変だと思います。 食べていくためにしなければならない事であって、別に面白いとか楽しいとかという問題じゃないのかもしれない。
 新聞配達を辞めた後に整骨院のマッサージ師もやった事あるし、大学の先生もしていました。今の私は時に喫茶店のマスター、時に中国語や中国茶、太極拳の先生、時にテレビ局の専属通訳・・・。このすべての仕事は私にとって楽しくて仕方がないです。
 毎日毎日、私は私が好きな人とまた私を好きな人と一緒に中国の話ができる今は大満足で、そしてこの仲間達をどんどん増やしたいと思っています。
 まあ、格好よく言えば私にとって、次のステップは日中の架け橋になる事ですね。この架け橋は「友好」という一色ではなく、喧嘩もあり対話もあり、時には「金色」、時には「薔薇色」で、つまりいろんな色でこの橋を染めたいと思っています。




2009年05月05日

第三章 仕事

 中国に居た時は中学校の教員をしていました。90年代の前半なので教師という仕事はあまり人気がなかったのです。なんと言っても給料が安かったので、男なら結婚できない職業ですね。ちなみに今はすごくいい職業だそうです。失敗したね!
 来日初の仕事は新聞配達でした。言葉分からなくても働けると嫁さんが見つけてくれたのです。面接の場所は狸小路7丁目の自転車置き場。責任者風な中年女性が私に聞いた「真面目で長く働ける人がほしいです。李さんはいつまで働いてくれるのですか?」私が答えた「一生です。」本当にその時は一生新聞配達をやるつもりだったのです。
 次の日から2,3日の見習いとしてルートを覚えていました。初めは一週間と言われたのですが、無給だから断りました。私は三日で全部覚えられますと強く女性責任者に言いました。結局4日目から一人で回るようになりました。七時頃仕事が終わるので、帰って朝ごはん食べて、ちょうど学校に行く時間です。
 なんだか安定したという気持ちでしたね。しかし、一生働くつもりだったのにわずか一ヶ月で、その新聞が廃刊となりました。「派遣切り」の方々の気持ちはよく分かります。私はこれからどうしよう。
 幸い私は見捨てられなかった。紹介によって別の新聞販売店に入れてもらいました。しかもロゴ入りのユニフォームも頂きました。とても嬉しかったのです。ついに私も労働者になった気分です。
 吹雪の朝、自転車に乗って一軒一軒新聞を配る仕事は楽ではなかった。叱られたり、馬鹿にされたり、笑われたりする事もよくありました。でも、楽しかった。私も嫁さんも何も考えていないで二人で日本で暮らそうと思っていたが、現実はそう甘くなかった。ある日風邪を引いて熱が出た。夕刊を配って帰った後に寝込んでいました。翌日の朝、机に上に嫁さんが書いてくれた手紙が置いてあった。「お疲れ様!
風邪は大丈夫か。もともと教壇に立っていたあなたがわざわざ日本に来てこんな苦労をしなければならないのかと思っているでしょう。本当に辛かったら言ってください。一緒に中国に帰りましょう・・・」と書いてありました。
 もちろんこの手紙は今でもどこかに保存しています。
 新聞配達は半年で辞めました。私には次のステップが待っていました。しかし、その時がなければ今の私もないだろうといつも思っています。(つづく)

2009年05月04日

第二章 言葉の壁は・・・つづき

言葉の壁は厚いとよく言われていますが、私はそう思いません。言葉を語学だ思うとやはり学問だから簡単に習得できるものではありません。
 しかし、どうして外国語を覚えなければならないのでしょうか。自分の国に暮らしている以上外国語は必要ないのではないでしょうか。きっと何か目的がなければそこまで苦労しなくてもいいんじゃないですか。恐らく私は日本に来なかったら日本語は絶対に話せないです。でも、日本に来てなぜか分からないけどこの土地を好きになっちゃった。良い人ばっかりと出会って楽しくて仕方がないです。
 北海道は大好きです;あなたの事は大好きです;あなたと知り合えて嬉しいです;あなたと友達になりたいです;私の気持ちをすべてあなたに伝えたいです。これらは私の日本語勉強の動機です。二年、三年経ってやっとこの気持ちを理解してもらえるようになった。友達もたくさん増えました。仲良く飲んだり食べたりする事もあれば、顔赤くなるまで議論した事もよくあります。心の壁さえなければ言葉の壁なんてすぐぶち壊せるものです。

2009年05月01日

第二章 言葉の壁は・・・

 日本に来る前少しは日本語を勉強していました。あまり努力していなかった私がなんとか平仮名を覚えました。
 当時は直行便がなく、札幌に来るため一回成田空港に着き、それから羽田に移動しなければならないので、結構不安でした。言葉も分からないからどうしようと彼女(嫁さん)に電話した。「大丈夫。すいませんさえ言えればなんとかなる。」と教えられた。結局はなんとかなりました。
 来たばかりの時、一番好きな物は自動販売機です。一日2、3回利用した。なぜかと言うと喋らなくても買い物ができる。でも生活をしていくために言葉が分からないと困りますよね。彼女に勧められて日本語学校でも行こうかなと決心した。5月に来て、6月に学校に入った。見学の時はさっぱり分からなかった。当然先生は日本人で中国語は話せない。生徒もいろんな国の方が居て、その区間の中では日本語が共通語です。
 見学終わった後、先生にいろいろな質問されたけど聞き取れなくて、「そう、そう」ばかりで答えた。これは私の初めての日本語会話だった。今でも「そう、そう」が私の口癖です。中国語で言うと「対、対」という事ですね。
 まあ、無事に入校しました。クラスはもう4月から始まったので、途中に入った私にとっては辛かった。孤独でした。
 しかし、この孤独感が後で大きな役に立った。今になって言えるけど、語学は孤独との戦いですよ。常に一人で日本語を朗読した。「私は中国人です。日本人ではありません。」「私はビールとサッカーが好きです。」・・・思いつく物をひたすら一人で叫んでました。当然聴衆も私一人です。この孤独な時間を作れば作るほど語学は進歩するのではないかと思います。六ヶ月間程日本語学校で勉強していたが、一月5万円の授業料は私にとって結構な出費なので、学校を止めました。(つづく)

2009年04月27日

第一章:日本上陸(つづき2)

 札幌に来てちょうど一週間後の土曜日だった。嫁さんに連れられて当時すすきの
新宿通りにある「ららつー」という店に行きました。ショーパブだけど、俗に言う「オカマバー」ということです。風俗店の看板すら見れなかった私がいきなり「オカマバー」デビュー。楽しかったかどうかは覚えていないが、今はこの店の常連ということは間違いないです。オーナーのつららさんとも親友で何度も一緒に旅行しました。気が向いたらつららさんの話もしたいと思います。彼(彼女?)は私の人生の中でもかなり影響を与えてくれた人です。
 少し落ち着いてから、嫁さんさんはそろそろ親の挨拶に行かなければならないと言い出した。義理の姉と弟は私が来てからすぐ札幌で会いました。やはり、皆がすごく不安がっていました。これからどうするの、日本語も話せなくてちゃんと暮らせるのと心配してくれました。
 義理の母は栃木に居て、おばさんと一緒にホテル(おばさんが経営していた小さなラブホテル)を切り盛りしていました。その年の夏、嫁さんと一緒に栃木の今市に行きました。嫁一家はこの結婚にずっと反対していた。義理の母が言うには中国人と結婚したらいつか殺されて埋められちゃうよ、と。中国人のイメージは相当悪いですね。最近は中国のイメージは食べ物は皆毒入りだと思われているようですし。中国は泥で出来ている家ばかりで、ほとんどの所は電気が通っていなくて、町中は自転車だらけ、エアコンとカラーテレビを持っている家はかなりのお金持ちか共産党幹部かどちかである、という事が事実であると思いたいようなんです。
 すみません、話が飛んでました。栃木に行って母と会いました。事態が一転して非常に私の事を気に入ってくれて、一日ホテルを休業して私を連れて観光してくれました。私がエビと蟹が大好きだという事を知って帰りの日に嫁さんに5万円持たせて「あんたの旦那にエビと蟹を腹一杯食わせてやりなさい」と言っていたようです。
やっぱり、異国であろうと異文化であろうと、最後は人と人の付き合いですね。
(つづく)

 写真のアップが遅れました。11年前の上海虹橋空港でジャック・リを見送りに来てくれた友人です。
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2009年04月22日

第一章:日本上陸(つづき)

 この日記を見て頂いた方、コメントを頂いた方に御礼を申し上げたいと思っています。
 決して社交辞令ではないですが、私はこの11年間楽しく過ごしてこれた最大のお陰は一人一人との出会いです。友です。

 私は日本に来て初めて出来た友達はつららさんです。今でも大の親友です。11年
前の5月23日は土曜日でした。当時の住まいは札幌中央区にあるすすきのという所の近辺です。環境は悪くないけれど、ラブホテルばかり。彼女(嫁さん)と一緒に地下鉄すすきの駅から西5丁目通りを通って歩いて家に帰りました。その通りは建物もやや古くて、どちらかというと風俗店が多い路です。社会主義国家で教師をしていた私にとって、この帰り道はかなり刺激的でした。風俗店の水着を着ているお姉さんの看板が目に入った瞬間、もう唖然としました。一体私はどんな国に来たんだろうと思っていました。日本の第一印象はすすきのです。今思えば結構冒険だったんですね。中国人はすすきののような歓楽街を「紅灯区」と呼んでいます。「紅灯」は赤信号のことで、つまり入ってはいけないエリアです。何も知らない私はいきなり入っちゃったよ。
 衝撃はまだ続きます。次の日、一人で家の付近を見物しました。付近と言ってもほとんどすすきのです。午前の11時ごろ。街に歩いている人は本当にいなかった。昨夜あんなに賑やかだった街はどうなったんだろうと思っていました。そのまま歩いて中島公園にたどり着いた。
 今でも中島公園は私の中では聖地です。池の横にあるベンチに座って、池を眺めながら、遠くに居る家族や友人と会話ができる場所です。ちなみに初めての会話(手紙)はこんな感じです。「日本は素晴らしい国です。とにかく清潔で静かです。公園の入場料もタダです(今中国の公園でも入場料がタダになりました)。日本人は大体昼は寝てます。夜になって働きに行くらしい。」
 やはり初めて目にした物は大きいですね。恐らく中国にいる何人かの友達は私のこの間違った情報を信じてくれたのかもしれない。
 来日一週間経ちました。嫁さんに「今日飲みに行かない」と誘われた。ちなみに内夫婦揃ってノンベです。「いいよ、いいよ」とワクワクして応じた。当然行く場所もすすきのでした。すすきの無しにジャック・リの日本ライフは語れないですね。また、その行った店も大きな衝撃が待っていた。(つづく)

2009年04月19日

道産子中国人ジャック・リのつれづれ日記

第一章:日本上陸

 半年ぶり4月11日にきむきむさん(かなりの親友)と一緒に上海に行ってきました。仕事の打ち合わせでした。結論で言うとあまり順調ではなかった。ものすごく疲れました。
 きむきむさんとかつて4,5回位一緒に上海に行ったのですが、いつも珍道中で良い思い出ばかりしてきたのです。今回のようなのは初めてです。まあ、人生はいつも付いてる訳ではないですね。
 この2年間、ずっと北海道の某テレビ局の中国ビジネスに関わって、北海道の観光や物産を上海または中国全土に広めていこうという仕事をやってきました。上海生まれ上海育ち、そして北海道11年間住んでいた私にとって、仕事というよりもむしろ使命だと感じています。
 自慢話になるが、周りに人にいつも「李さんは北海道人より北海人だね」と言われています。「そうだよ、私は道産子だよ」といつも思っています。
 自分はいつから道産子になったんだろうね!来日11年を記念にこの「道産子中国人ジャック・リのつれづれ日記」を書こうと思います。
  
 私はなぜ北海道に来た理由は稚内出身の女性に魅了されて、彼女を追っかけて北海道にきました。上海に居た時は中学校の教員をしていました。平凡な毎日を送っていたが、ある偶然な機会で彼女と出会って、当然お互いに言葉も分からない。どうやってデートしたのとよく聞かれる。デートの時にいつも日本語をちょっと分かる中国人の友達と一緒だった。通訳付きデートでした。意外と面白かった。今は彼女はもう私の嫁になって、11年もこの北海道で暮らしています。
 日本に来た日は1998年の5月23日。親戚を含めて私を空港まで見送りに来た友達は約40名です。乗用車2台、バス1台。その40人の中、覚えているのは半分位、ひどい奴だね。
 飛行機に乗るのは生まれて初めてです。当時は上海と北海道の直行便はなく、東京経由で来たのです。もちろん機内食は初めてです。今思えばとても恥かしかった、機内食の食べ方すら知らなかった。冷凍されたそば(まだ固まっている物)をパンだと思って、そのまま箸で突いて汁につけて食べた。まずかった!
 初めての飛行機は国際線でよかったとよく思っています。向かっている所はまったく知らない新天地で、俺はきっとその新天地で大活躍してビッグになるという心境は飛行機が離陸した瞬間に強く感じました。
 まさに「俺の空」という感じですね。

 2時間弱で成田空港に着いた。初めての日本はかなり好印象。まずはとても綺麗で近代的な空港に感動した。ちなみに当時は上海では一つの空港しかなく、虹橋空港と言って小さくて汚かった。やっぱり日本は先進国だ。もう一つ感動したのは空港の女性スタッフは滅茶可愛かった。言葉の分からない私が札幌行きの航空券を彼女(スタッフ)に見せたら、すぐ私を羽田空港行きのバス停に連れてくれました。素敵な
笑顔でした。
 順調に新千歳空港に着きました。時刻は夜七時半頃。私が追いかけた彼女は空港まで迎えに来てくれて、一緒に札幌行きのエアポートに乗った。
 ジャック・リの夢見る北海道ライフはここから始まります。(つづく)